幼少期~小学校
私の住んでいた地域は工業地帯の側で公害も問題になっており、その影響で小児喘息を患うこととなり病院や室内で過ごすことが多かったです。父は私が持病を理由に自分の可能性を狭める事がないようにと考えたのでしょう。家族で近隣をマラソンしたり、鉄アレイやエキスパンダーを使ったトレーニングメニューを作ってくれたりしました。元々負けず嫌いだった性格もあって、小学校のマラソン大会では毎年10位以内に入る事が出来、6年生の時の学校の行事、相撲大会では優勝する事も出来ました。何事もやる前から諦めない、逃げないという精神はこの時に培われたものだと思います。
中学校~高校時代
中学では担任の先生や友達に恵まれ、3年間通してクラス全員仲が良く、非常に充実した毎日でした。サッカー部に所属し、ここでもしっかりと体を鍛え、レギュラーとして試合に出る機会にも恵まれました。また3年間通して学級委員長をさせていただき、1年の時には学年委員長を務める事でリーダーシップを培う事も経験させてもらいました。
その一方、高校に進学すると、一部の教師や生徒による差別的な言動に馴染めず、次第に孤立感が増していきました。いじめの現場にも直面し、改善しようと試みたものの、その行動が逆に私を孤立させる結果となり、部活も辞めざるを得なくなりました。不安や怒りが積もり、時にはひねくれた態度を取ることもありましたが、この経験は価値観や信念を見つめ直す大きな機会となりました。
専門学校時代
プライドの高さと高望みをしすぎた結果、大学受験に失敗し、進路に迷っていた私を助けてくれたのは父でした。地元の専門学校のパンフレットを持って帰ってきてくれて、新設されたインターネットやパソコンについて学ぶコースへと勧めてくれました。その当時の経験があるからこそ、私は今もこうしてパソコンをある程度使うことが出来ています。言うことを聞かずわがままを通して受験に失敗した私を嫌な顔一つ見せずに専門学校へと送り出してくれた両親の気持がとても嬉しく、2年間の在学中に10以上の資格を取得し、学校からは表彰状と記念のたてをいただきました。また同級生達とも仲良くさせてもらって、バンド活動をしたり、様々な場所への旅行等、沢山の思い出も出来ました。
社会人1年目
専門学校を卒業後、時代は就職氷河期、本当に沢山の履歴書を書いては送付しておりましたが、中々内定が得られませんでした。ようやく採用していただいた大手メーカーの車両量販店では、経理で雇われたはずでしたが、実際には事務全般、接客、はては洗車等の業務もこなさなければならず、本当に忙しい毎日でした。また上司からのパワハラや過酷な職場環境に苦しみ、労働基準監督署に相談に行きましたが、「仕事なんてそんなものだよ。甘えるな。」と笑われた事で深い失望感と社会への不信感を抱くことになり、しばらくした後、著しく体調を崩してしまい1年半で退職してしまいました。
再出発へ
社会への不信感やパワハラで傷ついてしまった私を支えてくれたのはまたしても両親でした。約半年、自然豊かな様々な場所へドライブに連れて行ってくれました。美しい景色を眺め、美味しいものを食べ、地元の温かい人達に触れる事で少しずつ心が回復していき、気持ちが前向きになっていきました。そして再び就職活動を始める決意を固める事が出来ました。これらの体験、自分が一歩踏み出せた経験、多くの方の優しさに助けてもらった事が、私が様々なボランティア活動へ積極的に参加することへのきっかけにもなりました。
新しい職場と経験
その後、心機一転、勉強してきたITや事務関連ではなく、FRP(強化プラスチック)の製造会社へと就職、様々な事を経験し、大きく成長する事が出来ました。現場での製造業務、工程管理、品質管理、納品、出張工事と業務の幅は本当に広く、大手メーカーさんとの共同プロジェクトにも参加させていただく機会もあって、全く経験した事がないことばかりで大変ではありましたが、本当に充実した6年間でした。残念ながら、多くの取引先で社長の御子息と私があまり良くない比較をされ、どんどん社長の心象が悪くなってしまい、最後は喧嘩別れとなって退職してしまいましたが、ここでの経験は今でもありがたいと思っています。その後、元々興味があり、挑戦してみたかった吹きガラスを学びながら、派遣社員として倉庫運営会社の飲料水の出荷業務等に2年間携わりました。この2年も私にとってはとても良い経験をさせてもらった時期でした。
人生の大きな転機となる最後の職場
先程の2年はあらかじめ決めていた期間で、これからは結婚や幸せな家庭を築く為にしっかりと将来を見据えて就職活動をし、地元の大手グループ会社の物流拠点に就職しました。フォークリフトを使った入出荷作業をはじめ、物流業務全般に携わる事となり、責任あるポジションも任せられましたが、上司と部下の間で発生したパワハラ問題に巻き込まれ、上司が仕事を放棄し、会社もそれを黙認、助けたはずの部下の家族にも問題の責任を押し付けられ、暴言をはかれ、精神的にも肉体的にも疲弊していきました。更にこの時期、プライベートでも恋人とのトラブル等が重なり、過労とストレスが原因で倒れてしまい、恐怖性不安障害とそれに伴うパニック発作や様々なトラウマと症状を抱える事になりました。これが私の長い闘病生活のはじまりです。
闘病生活と母の介護
闘病生活での様々な事はブログ内の闘病記のカテゴリーに記事としてまとめておりますので、そちらをご覧下さいませ。この時期は私もかなりしんどかったですが、母が股関節を悪くしてしまって歩けなくなってしまった為、手術をすることとなり、その間、家事全般をやらなければならなくなってしまいました。父も色々と手伝ってはくれたのですが、何分そういったことが苦手な人なので、本当に大変でした。近所の買い物に行くのも辛く、泣きながら壁を伝って歩いていっていたのを今でも覚えています。しかしながら、手術後退院してまだ満足に動けない母をお風呂に入れたり、一緒にリハビリをしたりと今となっては良い思い出で、幸いな事に母は今は歩けるようになり、父とともにまだ元気でいてくれておりますし、少し親孝行や恩返しが出来たかなと思えた時期でもありました。そうした様々な経験をしながらの闘病生活も13年、私自身もようやく出来る事の幅が広がってきました。
これからの人生
振り返れば、私の人生は数々の困難に直面してきましたが、その一方で、そこから得られた学びと成長も確かに存在しました。病状が少しずつ改善し、出来る事も増えてきた今、第二の人生として新たにスタートをきることにいたしました。それと同時に私の経験を活かし、少しでも他の人を支えられる存在になりたいと思っています。過去の困難を乗り越えてきたからこそ、誰かの力になれる瞬間がきっとあると思うのです。そして自分自身が今を楽しみ、可能性を広げていく事も大切にしていきたいです。一歩一歩、着実に、そして前向きに。これからの道のりが、私にとっても、そしてこのブログを読んで下さっている皆さんにとっても、希望に満ちたものである事を願っています。