はじめに
※この記事は雑記カテゴリーの中にある、
「時代の中で感じること」の導入記事として位置づけています。
現代に広がる価値観の変化や違和感の源流をふり返りながら、
これから綴っていくエッセイへの“はじまりの問い”として、ご覧いただければ幸いです。
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私が雑記の中で、このカテゴリーを作ったのは、
日々の暮らしの中で、“価値観の歪み”のようなものを、
以前よりも強く感じるようになったことがきっかけでした。
そして、私の姪をはじめ、子供達の未来を思うたびに、
「このままでいいのだろうか」
そんな不安が、今も心のどこかにじわじわと広がっていっています。
社会への怒りや批判をぶつけたいわけではなく、誰かを責めたいわけでもありません。
ただ、私自身がこの時代を生きて感じた、
この“違和感”を、丁寧に言葉にしていくことで、
少しでも何かを考える“きっかけ”になれば、
そんな思いを込めて、このシリーズを書いていこうと思っています。
なぜ今、私がこのような“違和感”を覚えるのか、
一つの視点として、受け取っていただければ幸いです。
価値観はいつの間に変わってしまったのか
私が子供の頃、
「挨拶をする」「相手の立場に立って考える」といった
基本的な人との関わり方は、家庭や学校、地域の中で自然と教わるものでした。
また、ご近所さんとのちょっとしたやりとりの中にも
人と人との間にある思いやりや配慮、礼儀が息づいていたように思います。
ただこれは、高度経済成長期を背景に、
人々の中に“未来への期待”や“生活の見通し”といった、
ある種の余裕があったことも大きな理由であり、
昭和の時代が、全て理想的だったわけでは決してありません。
理不尽、不平等も含め、本当に数多くの問題も存在していた時代だったと思います。
ですが、そうした中でも“人と人の間にあるあたたかさ”が、
日常のすき間に確かに存在していたように思うのです。
その一方、現在は、誰かと気持ちを分かち合うよりも、
「自分の時間を大切にしたい」
「心地よいことだけを選びたい」
「人と深く関わるのは避けたい」
社会全体が“効率”と“スピード”を優先するようになった中で、
そうした想いがどうしても優先されるようになり、
丁寧な関係性や、何かをゆっくりと育てる時間や価値観が、
徐々に置き去りにされていってしまったのではないでしょうか。
「個人の自由」という言葉が強くなり、
「家族のかたち」も変わっていく中で、
人と人との繋がりや支え合いが、
少しずつ薄れていってしまったように思います。
経済成長もなく、将来の見通しも立たない中、
自由に生きるという選択肢はとても大切で、尊重されるべきものですが、
その自由の先に、孤立や不安、無責任や無関心があるとしたら、
私たちは“共に生きる”ということの意味を、
しっかりと見つめ直す時期に来ているのかもしれません。
豊かさと引き換えに失われたもの
時代が進むにつれて、暮らしは確かに便利になりました。
スマートフォン一つで、あらゆる情報にすぐ手が届き、
人と顔を合わせる事なく、容易に繋がる事さえできる現代。
実用的なものから趣味にいたるまで、
多様なサービスがいつでも手軽に受けられる時代です。
けれどその便利さの陰で、
- 顔を見て話す時間
- 言葉を選んで伝える心
- 誰かの立場になって想像する力
そんな“人としての当たり前”が、
少しずつすり減っていっている気がしてなりません。
本来なら、暮らしが便利になったぶん、
“時間の余裕”が生まれているはずです。
ところが、現実には、生活にも心にも、
かえって余裕がなくなっているように感じるのはなぜなのでしょうか。
経済的な時代背景を考慮しても、やはりそこは強く感じてしまいます。
私たちの“心”と“時間”は、いったい何に消費されているのでしょう?
情報? 期待? 他人の目?
それとも、終わりのない「満たされなさ」でしょうか。
そして、そうした「すり減り」や「満たされなさ」が、
知らず知らず、誰かを責めたくなる気持ちへと繋がってしまっていて、
SNS等でもそんな空気が広がっているように思います。
誰かのせいにしてしまう前に
「政治が悪い」「若者がだらしない」「上の世代がズルい」
いつの時代も繰り返し語られることですが、
最近は特にそうした声を耳にする事が増えたように感じます。
確かに、制度や社会の構造、
あるいは生まれた世代によって受けてきた恩恵や不利益に、
大きな差があるのは事実です。
でも、ふと思うのです。
もし私がその時代に生まれていたら?
バブルの恩恵を受けた世代に生まれていたなら?
あるいは、今の若者たちの立場で育っていたなら?
きっと私も、無意識に似たような選択や行動をしていたと思うのです。
誰かを責める前に、少し視点を変えて未来の方へ目を向けてみる、
「どうして、こうなってしまったのか」
「どこで、何を失ってしまったのか」
「これから、どんな未来をつくっていきたいのか」
その問いを一緒に見つめ直す事が、
今とこれからを考える為の小さな導となるのではないでしょうか。
そしてもし「おかしい」と感じたり、
「こうだったらいいのに」と思うことがあったなら、
どうか、ほんの少しでいいので、行動に変えてみてほしいのです。
例えば、一人一人が誰かにやさしくする事を意識するだけでも、
それはとても大きな力となります。
不満の先に自分なりの小さな一歩を置くこと、
それはきっと、時代を少しずつ変えていく種になると、私は信じています。
最後に
ここまでお読みくださった上で、
「なんとなく、わかる気がする」
そう感じていただけたなら幸いです。
もし「私はそうは思わないな」と感じられた方がいらしても、
それもまた、大切な一つの考え方だと思っています。
この記事は、誰かに答えを押しつけるためのものではありません。
「今、私たちはどこへ向かっているのだろうか?」
どこかおかしいと感じる社会や事象について、
ほんの少し立ち止まり、考えてみるきっかけになれば、
それだけで、書いた意味は十分にあります。
次回はこの“価値観の変質”がなぜここまで進んだのか、
その背景にもう少し踏み込んで綴ってみようと思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。